両川船遊
現・十二代目結城孫三郎の二つ名。
明治の通人粂野彩菊彩人(日本画家の鏑木清方のご尊父)より頂いた写し絵名人であった九代目結城孫三郎が隅田川での屋根舟を使った写し絵興行の際、写し絵の興行の際に使った名前です。
「両国の川で船遊び」という昔の舟遊びで人気のあった写し絵の情景を偲ばせる名前です。
現・十二代目結城孫三郎の二つ名。
明治の通人粂野彩菊彩人(日本画家の鏑木清方のご尊父)より頂いた写し絵名人であった九代目結城孫三郎が隅田川での屋根舟を使った写し絵興行の際、写し絵の興行の際に使った名前です。
「両国の川で船遊び」という昔の舟遊びで人気のあった写し絵の情景を偲ばせる名前です。
(初代 結城一糸、十代目結城孫三郎)
昭和の名人と謳われた稀代の人形遣い。
十二代目結城孫三郎の父。女形を得意とし古典作品はもちろん新作も可憐な娘役から、妖艶な年増まで、その糸さばきは見る人すべてを魅了しました。
明治40年生まれ 平成9年没。
160年ほど前に作られた「伽羅先代萩」のヒロイン役の人形です。その凛とした面差しは年を重ねるごとに美しさを増していくようです。
「伽羅先代萩」は江戸時代に起きた伊達家のお家騒動を基に作られた有名な戯曲で現在でも歌舞伎、文楽でもたびたび上演されます。この中の「飯炊の場」は結城座初演です。
初代結城孫三郎が櫓を上げた場所。「桐竹紋十郎手記」によると「寛永十二年江戸、さる若町結城孫三郎、元はふき屋町、御免御操り矢倉まくにあがる」とあり、現在の日本橋人形町近辺です。この辺りは手あやつり、南京人形など人形関係の座が集まっていました。また人形や羽子板細工、錦絵などを売るお店も軒を連ねていたそうです。
糸あやつりは、奈良時代(8世紀初頭)に中央アジアから中国・朝鮮を経て日本に伝わったとされています。一般庶民の娯楽として歓迎され始めたのは豊臣秀吉が全国を制覇しようとする頃のことで、その後江戸に幕府が開かれ、新しい都市として発展し始めると、唯一の盛り場だった中橋(いまの日本橋)で上演されるようになりました。
三代将軍家光の治世、1635(寛永12)年に初代・結城孫三郎が日本橋・葺屋町に糸あやつり人形芝居の櫓を立てたのが結城座のおこりです。
2004年9月から文化庁の支援により開始しました。古典糸あやつり人形遣いの育成及び人形芝居を多くの人に広めるために行っております。人形の遣い方を人形の持ち方から初めて、動きについて、台詞の言い方について、などを初歩から勉強していきます。