岡本綺堂

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1872年(明治5年)東京に生まれる。元御家人で英国公使館書記の息子として育ち、東京府立中学を卒業後、劇作家を目指し、「東京日日新聞」の記者となり劇評を書き、戯曲を執筆。「修禅寺物語」を2代目市川左団次が演じたことから評判になり、新歌舞伎を代表する劇作家となった。1917年(大正6年)には、シャーロック・ホームズの影響を受けた、日本最初の岡っ引捕り物小説「半七捕物帳」の連載が開始され、江戸情緒あふれる読み物として長く人気を博した。

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明治二十六、七年(下)

ここで少しばかり人形芝居について語りたい。

 義太夫(ぎだゆう)の隆盛に連れて明治二十六年には神田錦町に新声館が建てられた。今日では活動写真館になっているが、元来は人形芝居の小屋として作られたもので、大阪の文楽と東西相対峙するような意気込みで、東京にいる太夫の主なる者はことごとく出勤することになった。

 二十七年頃がその全盛時代で、寄席でもだんだんに流行らなくなって、結城孫三郎のあやつり以外には、出使いの人形芝居はもう見られなくなった。人形芝居などというものは東京人の趣味に適さず、気の早い人はひと口に木偶(でく)の坊と蔑(けな)してしまうらしい。そうして、人間でも木偶の坊に劣る芝居のあることに気がつかないらしい。よい太夫が浄瑠璃(じょうるり)を語って、よい人形使いが人形を働かせるという情味が、東京の観客にはだんだん判(わか)らなくなって来たらしい。義太夫を聴く耳はあっても、人形を見る眼はないらしい。たとえば、おしゅん伝兵衛の「堀川」のごとき、人形でなければどうしても本当の情味は出ないように私は思うが、一般の観客はやはり生きた俳優を通してその情味を賞翫(しょうがん)したいように思っているらしい。勿論、それは私の方が間違っているのかも知れない。わたしは大阪で文楽の人形を観た。たった二度観ただけであるから、その印象が薄いせいでもあろうが、私としては大阪の文楽よりもやはり東京の新声館の方がなつかしいような心持がする。

 わたしが新声館へたびたび行く頃には、毒々しい絵具などを塗り散らした活動写真の看板は見えなかった。勿論、その近所に電車などは通らなかった。その辺は神田としては静かな町であった。新声館へ曲がってゆく横町の角には、幾本かの幟(のぼり)が春風にゆるくなびいて、そこらの家の庭には木蓮や桜の花が白く咲いていた。わたしはそのころ流行り出した鳥打帽子をかぶって、その幟の下をぶらぶらと歩いて行った。そうして、人形の踊っている舞台をしずかに眺めていた。今から考えると、全く夢の世界である。私ばかりでなく、四十年前の人間は皆この夢の世界に住んでいたのではあるまいか。

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