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2012年 結城座自主公演「ミス・タナカ」作 ジョン・ロメリル 翻訳 佐和田敬司 脚色・演出 天野天街 2012年9月26日〜30日

作品紹介

『ミス・タナカ』あらすじ

第二次世界大戦前夜1930年台、真珠貝採取産業に沸くウェスタンオーストラリア州ブルーム。そこには、真珠産業の重要な労働力として、マレーシア、フィリピン、中国、そして日本の太地町(和歌山)から潜水夫(ダイバー)たちが入植していた。
太地町出身の田中佐一は手練の老潜水夫(ダイバー)。博打に大負けし、息子・和彦を潜水夫(ダイバー)仲間に売ってしまう。それに納得がいかない和彦は自分救出の一計を案じ —そして、仕事・博打・喧嘩に明け暮れる海の男たちの前に、突如現れた田中佐一の姪と名乗る謎の美女「ミス・タナカ」が、たちまち皆を虜にしていく— 

オーストラリアで権威ある文学賞も受賞した、魔術的想像力に満ちたコメディ『ミス・タナカ』は、2000年にジョン・ロメリルによって書き下ろされ、日本での本格上演は初(註)となる。

(註) 2011年早稲田大学にてリーディング芝居で紹介された。それを聞きに行った十二代目結城孫三郎が、この戯曲は結城座が人形芝居で上演したら面白いに違いないと即断、作者ロメリルに申し入れ、快諾と歓迎を受け、上演に至ることとなった。

結城座によるジョン・ロメリル作『ミス・タナカ』上演の意義
〜 日豪の二つの「再会」 〜

(佐和田敬司)

2000年にメルボルンで初演された『ミス・タナカ』を、新たに日本で結城座が上演することは、日豪の間の二つの「再会」という意味で、大きな意義を持っている。

ブルームと和歌山県太地町の「再会」

ブルームの真珠産業と日本人ダイバーの活躍

『ミス・タナカ』の舞台であるウェスタンオーストラリア州北岸の町ブルームは、真珠貝の豊かな漁場である。真珠そのものの価値だけではなく、真珠を内包している貝殻自体が、プラスチックが普及する1960年代まではボタンの原料に用いられて、大きな利益を生んだ。
しかし真珠貝の漁は潜水病をともなう過酷な労働のためにダイバーの確保が難しくなり、19世紀後半からその穴を埋めたのが日本人だった。日本人たちは真珠貝採取のダイバーとして大いに活躍した。日本の商人もやってきて目抜き通りに日本人相手の店を構え、また相撲大会や歌舞伎、盆踊りも行わるほどの賑わいを見せた。しかしブルームの真珠貝産業は、第二次世界大戦での日本人の強制送還、日本軍によるブルーム空爆を経て、見る影もなくなる。そして戦後は、また日本人がこの地に戻り、ミキモト真珠が真珠養殖場を開設するなど、真珠産業の復興に大いに貢献したのである。

太地町のイルカ漁問題をめぐって

ブルームにいた多くの日本人は、和歌山県沿岸の町、とくに太地町からやってきた人たちだった。『ミス・タナカ』の中心的な登場人物である田中佐一も太地町の出身で、故郷へ帰りたいという切なる願いが、物語の柱になっている。そして太地町は古くから捕鯨の町だったが、ある出来事がきっかけで、この小さな漁村は日本のみならず世界で有名になる。2009年、太地町で伝統的に行われてきたイルカ漁を批判する立場から、アメリカで『ザ・コーヴ』というドキュメンタリー映画が作られた。この映画はアカデミー賞を受賞して世界的な関心を集め、昨年の日本での公開時には上映反対運動が起きるなど混乱をひき起こした。
真珠産業の歴史を記念して太地町との姉妹都市関係にあったブルーム市でも『ザ・コーヴ』の上映会が行われ、市議会はイルカ漁への抗議のため太地町との姉妹都市関係を破棄すると議決し、日本や太地町に衝撃を与えた。しかしその後、ブルームの日本人移民の血を引くアジア系、アボリジニ系の住民から反論が巻き起こり、市議会の決議は覆された。ブルーム市は改めて太地町に対して、一方的に姉妹都市関係を破棄したことを謝罪し、今後ふたたび、友好を深め合うことを申し出た。
このように、ドラマチックな歴史を辿りながら「再会」した日豪の二つの町の友好は今、新たなスタートを切ったことになる。二つの町の切っても切れない絆を描いた『ミス・タナカ』を今上演すれば、日豪関係において現在進行中のこの関心事に、大きな役割を果たすことが予想できるのである。

結城座とジョン・ロメリルの「再会」

ロメリルのオーストラリアでの活動と作風

ジョン・ロメリルは、オーストラリアを代表する劇作家と呼ぶにふさわしい。ロメリルの偉大さは、40年以上にわたって変わることなく、オーストラリア演劇界の第一線で、重要な仕事を果たしてきたことにある。1960年代末のメルボルンで、ロメリルらをリーダーとする小劇場運動が始まった。日本でアングラ演劇が新劇に反旗を翻したのと同じ時代、ロメリルらの運動は、英国流演技や英国戯曲に席巻されていたオーストラリアの主流劇場に反抗し、オーストラリア人自身の表現や主張を小劇場から発信していった。つまり、真の意味の「オーストラリア演劇」はロメリルらの運動から始まったと言える。小劇場運動の終息以降も、ロメリルは前衛的・実験的な作品を書き続け、今日、オーストラリアで最も数多くの戯曲を生み出した劇作家とみなされている。さらに今日のオーストラリアの演劇界で重要な存在となった「先住民演劇」にもロメリルは大きな貢献をしており、彼のアボリジニの劇団との共同制作は、他のアングロ系劇作家と比べても異色である。

1995年ロメリルと結城座の出会い 日本版『フローティング・ワールド』

ロメリルの代表作は、1974年に書かれた『フローティング・ワールド』である。この作品は、第二次世界大戦で日本軍の捕虜として鉄道建設工事に酷使された経験を持つ元オーストラリア兵の主人公が、現代に日本へのクルージング旅行に出かけ、その船上で忌まわしい記憶を蘇らせ発狂するという物語である。戦後50周年にあたる1995年、『フローティング・ワールド』は田中千禾夫作『マリアの首』とともに、東京とメルボルンの両国際芸術祭の合同プログラムとして、日本人キャストによる舞台が日豪の両都市で上演された。この公演に出演した結城座とジョン・ロメリルは、最初の出会いをした。
日本版『フローティング・ワールド』は、特にオーストラリアで大きな反響を呼んだ。結城座の人形に観客は魅了されたし、また日本の戦争責任に触れた芝居を日本人自身が演じることの勇気に圧倒され、現地の新聞は「ついに戦争は終わった。この舞台は何千回もの謝罪に値する」とまで書いた。そして日豪演劇交流、文化交流の記念碑として、いまだに多くの人に語り継がれている。ロメリル自身も日本版『フローティング・ワールド』から大きな刺激を受けて、その後、近松門左衛門の「曽根崎心中」を翻案した『ラブ・スーサイド』、そしてこの『ミス・タナカ』という、日本とオーストラリアの出会いをテーマとしながら、しかも人形など日本演劇の表現を用いた作品を書いた。

そして17年後の再会 新たな日豪交流へ

日本版『フローティング・ワールド』から17年が経ち、結城座とジョン・ロメリルは、『ミス・タナカ』を通して「再会」する。あれから日豪の演劇交流は大きく進展し、一方、日豪の関係も形を変えてきた。17年前の『フローティング・ワールド』公演は、日豪間にある戦争の記憶を俎上に挙げたが、今日の日豪関係では、捕鯨問題などが、新たなイシューとして浮上している。
長い年月を経た末の、結城座とジョン・ロメリルの「再会」は、日豪演劇交流、日豪文化交流に、また新たな、そしてきわめて重要な一ページを刻むことになるはずである。


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